走らんか副社長

【日光街道 北行】

19区 今市~日光

なんだ、先月の写真と同じじゃないか、と言われそうだが、似たような写真になるのは、延々と続く杉並木街道をひたすら進んでいるからで、同じような景色に見えてもけっして同じなわけではない。いよいよ日光街道の最終区間、東武日光線下今市駅を出発し、杉の観察をしながら日光を目指す。


この木のどこが珍しいのか、写真でおわかりいただけるだろうか。明るい緑色の葉を茂らせている広葉樹が杉の幹の途中から生えて、その根元は杉に包み込まれている。この状況を表現するには、寄生あるいは共生、または同棲、はたまた合体!という言葉がふさわしい。

杉の枝に直径5cmほどの暗灰色の物体が無数について、まるで団子を串刺しにしたような状態になっているが、これはいったい何だろうか。枝に寄生している植物なのか、動物の仕業なのか、はたまた杉の木自身が出した樹液が固まったのか、不気味な物体をしばし立ち止まって観察するが、正体は何か見当もつかない。

後日調べて知ったのだが、菌によって起きる病害で、杉にこぶができることから、スギこぶ病というわかりやすい名前がついている。罹患した杉は衰えて枯死する場合もある、木から木へ伝染するとのことで、心配である。


このあたりは戊辰戦争の戦地だったところでもあり、砲弾を受けた傷が残る砲弾打込杉とよばれる杉の案内がある。

さらに進むと、街道から一段下がった目立たない所に小さな墓が並んでいる。ここで戦死した兵士たちを葬った墓らしい。今日はこの後、東照宮で徳川家康の墓もお参りすることになるのだが、そういう立派な墓所ではなく、参る人もほとんどいない路傍の寂しい墓には悲哀が感じられる。合掌。

それにしてもこれだけ多くの杉があると、花粉症の人はさぞたいへんだろうと想像する。1960年代に日本ではじめて花粉症なるものを発見して学会に発表したのは、当時日光の病院に勤務していた医師だとのこと、さもありなんである。貴重な歴史遺産とはいえ、杉の木が多すぎるのも困ったものだ。杉たるは及ばざるが如し。スギちゃんは泳がざるが如し。


日光街道最後の宿場は、日光宿ではなく鉢石(はついし)宿である。それは、鉢を伏せたような形をした石があったからだという。せっかくなのでその石を見てみよう、と地図を頼りに探すのだが、なかなか見当たらない。まさか撤去されたのではと不安になったが、表通りからはずれた奥まったところにある石を発見。これが鉢石か。しかも何故鉢(はち)ではなく、はついしと読むのかと突っ込みたくなるが、何はともあれ、これで街道21ヵ所の宿場をすべて通ったことになる。しかし、街道はもう少し続くのでさらに進む。


世界遺産に登録されている日光の社寺(日光東照宮、日光二荒山神社、日光山輪王寺)入口にかかる神橋(しんきょう)に到着し、ここで街道は終了である。神橋は、かつては将軍の社参など、限られた人しか渡ることを許されなかったのだが、今は通行料を払えば誰でも橋の上を往復することができる。

下を流れる川は大谷川という。大谷と書けば、おおたにと読むのが普通だが、宇都宮郊外で産出する石材は大谷石(おおやいし)であり、そしてこの川は大谷川(だいやがわ)である。なんとまあ、わかりづらいことよ。

そもそも日光という名称は、二荒山の二荒を“にこう”と音読して、日光という字をあてたのであり、その二荒山神社にして日光の二荒山(ふたらさん)と宇都宮の二荒山(ふたあらやま)で読み方が違うという複雑さである。どうも、この地には漢字をいろいろな読み方をして楽しむ文化があったのではないかと思う。


せっかく日光まで来たのだから、社寺を参拝して帰ることにする。一観光客としてカメラ片手に歩くと、有名な被写体はたくさんあるのだが、ここでは観光案内をするのが主旨ではないので、私なりの価値基準で気に入ったものを2つ紹介しよう。頭に盛大な植毛を施して派手なアフロヘアになった灯篭と、獅子が跳び下りた瞬間の姿を表現したというが、不謹慎ながら散歩中の雄犬のポーズを想像してしまう像である。


江戸時代、徳川将軍の行列は日光まで36里(約140km)を3泊4日で歩いたらしい。一日平均35kmの距離であるから、昔の人々はかなりの健脚であった。それに比べて私は、のんびりと1年半もかかってやっと走破である。

これにてこの企画は終了かと思いきや、まだまだ続く。では、次回からはどこへ向かうのか。ランナーの明日はどっちだ!

2012年9月

【参考文献】

  • 「栃木県謎解き散歩」 新人物往来社
  • 今回の走らんかスポット