「去華就実」と郷土の先覚者たち

第35回 宮島傳兵衞 (五)


七世宮島傳兵衞の生涯についての記述を今回で終了します。

山高帽を被って
ポーズをとる傳兵衞


(19)経営改革

事業の規模と領域が拡大するにつれ、組織の整備が必要になった。傳兵衞が取り組んだ経営改革については、前出の神山教授が研究されている。まず明治29年(1896年)、「内部」を設立した。経営企画と資産管理を行う機関である。石炭部、醤油部などに対する本家からの投資額を決め、その投資額に対する配当を各部から受け取った。各部を独立採算制事業部としたのである。

次いで明治37年(1904年)、「宮島家家憲草案」が作られた。これは草案しか残っていないから、正式に制定されたものかどうか分からない。ともかく草案によれば、同族5人以内からなる「同族会」を組織して、これを最高議決機関とする。財産は同族の共有として分家を認めない。同族内の「戸主」が「内部」を統括する。議決機関である同族会と執行機関である内部とを区別したのである。

明治43年(1910年)、合資会社宮島商店を設立した。資本金は10万円であった。37年(1904年)の改革では「内部」が資産管理と事業統括の両方を行ったが、この年の改革では、会社組織である宮島商店が事業統括を行い、「内部」の業務は傳兵衞の個人資産を管理することに限定した。会社事業と資産管理とを分離したのである。神山教授によれば、一連の改革は当時の三菱、三井など財閥が行っていた経営改革を参考にしたものだという。

さて明治43年(1910年)に合資会社宮島商店を設立するにあたり、長男の徳太郎を代表社員とした。次いで次男の明治郎(明治10年生まれで、明治十郎とも呼ばれる)が米国から帰国すると独立させ、酒造と酒販売の事業を任せた。6年前に作った「家憲草案」を自ら改めて明治郎に分家(新家)を認めたのである。こうして62歳の傳兵衞は第一線の事業から退いた。


(20)世界一周旅行

傳兵衞は出張や旅行を好んだ。商談、視察のための出張として、満州、朝鮮、台湾、上海、漢口、広東、香港、シンガポールなどに出かけた。仕事を離れた物見遊山としては、妻と共に讃岐、日光、伊勢、大和などに出かけ、妻を失った後には馬で阿蘇に登った。病気療養には別府を選んで滞在した。親友で炭鉱家の古賀善兵衛とは滑稽な耶馬溪(やばけい)旅行をした。「昔を忘れぬため」と称して、善兵衛は柳行李(やなぎごうり)、紺の風呂敷包みに紺の脚半(きゃはん)、傳兵衞はしゅす張りのこうもり傘に赤のケット(毛布)、浅黄のパッチ、紺の脚半といういで立ちで、行く先々で怪しまれながら、珍道中を楽しんだ。

旅行好き傳兵衞の集大成は明治42年(1909年)の世界一周旅行である。観光も兼ねていたとはいえ、主たる目的は投資と事業拡張のための視察であったという。3月18日、東洋汽船会社の千洋丸という1万2千トンの高級船に乗って横浜を出帆した。ホノルル経由でサンフランシスコに着き、そこに滞在していた次男の明治十郎と会った。以後は息子同伴の旅となり、米大陸を横断して大西洋を渡ってロンドンに着いた。

郵船会社のロンドン支店に田中富太郎という青年が勤務していたので、彼の案内でロンドンを視察した。田中は傳兵衞と同じ水主町の出身で、生家は宮島家のごく近所であった。傳兵衞は次いで欧州大陸に渡り、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、ロシア各国を視察し、シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断してウラジオストックに辿り着いた。そこから敦賀港に渡って、7月2日、唐津に帰った。3ヵ月半に及ぶ大旅行であった。

ナイアガラでの傳兵衞(右)と明治十郎(左)。
実は同じ背景で何種類かの写真がある。つまり前景と背景とをくっ付けた合成写真である。新しいもの、奇抜なものを好む傳兵衞の性格がうかがわれる。

英国での記念写真。
左端が田中富太郎、右端が明治十郎、その隣が傳兵衞。

 


(21)古希の祝いとその後

大正6年(1917年)の5月、傳兵衞は古希(70歳)を迎えた。お祝いに「七寿丸」という船が造られるなど、少し豪勢過ぎるお祝いが行われた。傳兵衞は自宅に300人の人々を呼んで自祝の宴を催した。ここで正式に家督を徳太郎に譲り、また、地元への感謝のしるしとして、奨学資金一万円を郡に寄付した。こうしてほぼすべての事業から引退した傳兵衞は、翌大正7年(1918年)9月に死去した。

傳兵衞古稀の祝いに建造された「七寿丸」

景勝地として名高い虹ノ松原の中に唐津市民の共同墓地があるが、傳兵衞の墓もそこにある。没後、東町の自宅前にある小高い丘の上(宮島公園)に銅像が建立されたが、第二次世界大戦中、土台だけを残して政府に供出された。戦後の昭和27年(1952年)、従業員有志によってその土台の上に「彰徳碑」が建立され、今に至っている。

傳兵衞の銅像

銅像の土台の上に建てられた「彰徳碑」。
写真は昭和27年(1952年)の除幕式。

宮島商店本体の事業は徳太郎が継承し、酒事業は明治郎が受け継いだ。塩の松浦塩販売、炭鉱の宮島鉱業、電気雷管の唐津火工品など、いくつかの個別事業会社もそれなりに順調に継承された。ロンドンで傳兵衞を案内した田中富太郎は帰国後、傳兵衞の孫トヨと結婚し、次いで本町の立花家に家族養子の形で入り、立花富太郎を名乗った。現在の「水野旅館」の当主立花徹三さんは富太郎の息子である。


(22)傳兵衞に関する仕事と研究

傳兵衞の事跡を研究するうえで最も重要な史料は「自伝」である。手書きの難解な毛筆文字で書かれており、おまけに独特の表記や言い回しもあって、現代人には読みづらい。それを解読して評伝の形にまとめたのが「七世宮島伝兵衛」(宮島庚子郎著)である。庚子郎(こうしろう)は傳兵衞の孫であり、自身は鉱業家として杵島炭鉱の坑長などを務めた。宮島醤油・宮島商事の役員も務めた。

傳兵衞「自伝」の冒頭

明治学院大学経済学部の神山恒雄教授はこれらの史料を研究し、独自の調査結果をも加味して、「七代宮島傳兵衞・宮島醤油の創業者」を書かれた。氏は傳兵衞の事業転換の巧みさを指摘している。傳兵衞は遠隔地海運からスタートした事業を明治10年代に「石炭の川下し」へと拡げた。この時代、国内輸送の手段は帆船から汽船へ、更に陸上では鉄道輸送へと大きく変化しつつあった。しかし変化は急激には起こらず、新旧の輸送手段がしばらく共存した。こうしたなかで傳兵衞が行った、帆船による遠隔地輸送と川舟による近距離輸送は、いわば隙間(ニッチ)産業であった。

時代の転換期に現れる隙間産業は、一時的に大きな利益を上げるが、長続きしない。そこで傳兵衞は第二の大転換を図る。それが醤油であった。傳兵衞は、自身の石炭輸送業が長続きしないことをたぶんよく理解しており、それに代わる「永遠の商売」を求めて醤油醸造業を始めた。この見識が正しかったことは、その後の宮島醤油の発展が証明している。

神山氏は、傳兵衞の事業展開の手法を「連続性を伴った転換」と特徴づけている。その通りだと思う。一見、大きな転換と見えることでも、よく見るとそこには従来の事業で培った経営手法、人脈、商圏等がうまく活かされている。明治期という変化の激しい時代を生き抜く事業家として、特に必要な資質であったと思われる。


参考文献:

  • 七世宮島傳兵衞著 「自伝」
  • 宮島庚子郎著 「七世宮島傳兵衞」 (1944年初版印刷、1993年復刻印刷)
  • 神山恒雄著 「七世宮島傳兵衞 -宮島醤油の創業者-」 日本史学会年次別論文集1991年版・近現代1 (1992年、日本史学会) 
  • 宮島醤油株式会社編 「七世宮島傳兵衞」 (2002年)
  • 日本産業火薬史編集委員会編 「日本産業火薬史」 (1967年、日本産業火薬会)
  • 清水荘一著 「西日本火工品のあゆみと日本火薬」(1983年)